逆境

文:"Bella"

アート作品: Adversity (作曲: Wesley Chu)

まず私にとってのお気に入りの言葉から始めたいと思います: 


「あなたの人生の物語がどのように広がるかを決定するのは、逆境そのものではなく、逆境に対するあなたの応えです」


 この言葉は私の物語を完璧に描写し、逆境を克服する力を与えてくれると思います。


2〜6歳: 行方不明の親、離婚、そして空っぽの家

         母は全国各地の都市で働いていて、私の近くには殆どいませんでした。父ともほとんど会う機会はなく、しばしば従兄弟のランが私の面倒を見てくれました。子供の頃、私はいつも心の底から母が家に帰ってくることを願っていました。でも母が家にいる時は、父が家に帰ってくることはめったにありませんでした。そして一緒にいれば、殆ど喧嘩が絶えませんでした。しばしば私は両親の喧嘩の声で目が覚め、喧嘩が終わると母は、私の父がどれほどひどい人かを私に語りました。


         果てしない戦いは結局離婚につながりました。裁判所は父に私の監護権を与えました。しかし、父が午前2時前に帰宅することはめったになかったので、私はほとんどの時間を一人で過ごすか、従兄弟のランと一緒に過ごしました。父に会う唯一のチャンスは、夜中にトイレに行く時、もしくは父が居間でテレビを見ているときだけでした。 


         ある晩、私は急性胃腸炎を患い、痛みのために、立つことも、話すことさえできませんでした。ランは私の父に電話して、家に戻って私を病院に連れて行くように頼みましたが、父は何もしてくれませんでした。なので、次に街の反対側に住んでいた母に電話をしました。車を持っていなかったので、母は私の看病をするために彼女の友人に運転を頼まなければなりませんでした。午前2時、父が帰宅してまた二人が喧嘩している声で目が覚めました。父は母を追い出し、病気の娘の病状も確認することなく自分の部屋に行きました。


父に自分の誕生日を祝ってもらうことはありませんでした:4歳の時の誕生日以外は。


6〜10歳:がん、死、いじめ、無言の叫び


         父は肝臓がんにかかり、二年半入院。そして、私が9歳の誕生日を迎える3週間前に亡くなりました。 6歳から9歳まで、週末、夏休み、冬休みのほとんどすべてを病院で過ごしました。私は休日に他の子供たちと遊ぶことができませんでした。ランは唯一の仲間でした、でもランも父の世話をしなければいけませんでした。結局、父の状態が悪化したので、ランは父の側に24時間無休でいなければならなかったので、私は母と一緒に住むようになりました。


         9歳の誕生日の3週間前に、父は早めの誕生日プレゼントとして時計をくれました。父は、今まで誕生日を一緒に祝えなかったことを後悔している、そして再び誕生日を祝うことはできないかもしれないと口にしました。父はとても疲れていて、長い休息が欲しかったと話しました。そして父にまた、翌日戻ってきてほしいと告げて、母にケーキと私の写真を持ってくるように頼みました。


         その夜、彼は真夜中に亡くなりました。38歳でした。母は午前2時30分にランから電話を受けました、そして私は母の泣き声で目が覚めました。さよならも言えませんでした。その日の早い時間に、私たちはケーキを持って行って、早めのお祝いをすることを計画していました。しかし、突然私は親を失いました。


         私のクラスの何人かが私をいじめ、父親のいないろくでなしと呼びました。やがて、母の家に近い別の学校に転校しました。二度といじめっ子に会う必要がなかったのが嬉しかったです。

         母は、私にもっと強くなるようにと言ってきましたー私自身のため、そして母のために。母を失望させたり悲しませたりしないために、私は母の前で泣く顔を見せず、父の死によって受けた痛みについても自分の中に留めておきました。毎晩ひっそりと布団にくるまって、静かに泣くことしかできませんでした。また、父の死体をみる悪夢もたくさんあり、夢の中では自分は何もできず、ただただ遠くからお父さんの死体を眺め、それが腐っていく光景を見ているだけでした。しばしば私は泣きながら目を覚まし、眠りに戻ることはできませんでした。夜が辛いのと同じく、昼間も自分にとっては平和ではありませんでした。他の子供たちが両親と楽しくぶらぶらしているのを見たり、両親が学校へ迎えに来たりするのを見るたびに、喪失感と孤独感を強く憶えました。 


10歳以上:侵入者


         母はいろいろな人と付き合い始めました。さまざまな人との付き合いを繰り返した後、彼女は別の男性と結婚しました。彼は私たちと一緒に暮らすことを約束しましたが、それはただの口約束だけで、現実になることはありませんでした。遠距離での結婚生活が始まり、彼が毎回家に訪れるたびに母はまるで別人のように変わりました、私は邪魔者、もしくは存在すら無いかのようでした。彼がテレビを見るときは、私はテレビを見ることができませんでした。彼らに自分たちの空間を与えるために自宅から出なければならない時間が多くなりました。そして、彼と私が衝突したとき、母はいつも私の方を叱り、私がわざと彼女の結婚を妨害していると叫び、時に私を殴りました。私は母にとっての重荷であり、新しい家族との幸せを邪魔している望まない子供であるように感じました。私がいなかったら母はもっと幸せになるのだろうと感じました。

         

         彼らの結婚は1年後に崩壊し、母親はまた他の人とデートし続けました。男の人が私の家に来るたびに、母は私に友人の家で夜を過ごすように言いました。また、私はただの邪魔者のように感じました。そして自分の家はもう家のようには感じませんでした。私が住んでいる家は、まるで一時的でしかない避難所ー 母が新しい家庭を築くことになったらすぐに捨てられるような場所に感じました。


         母がひどく落ち込んでいるとき、またはイラついている時に、私が最も恐れていた言葉を面と向かって吐いてきました。


「あなたは私をとても疲れさせる。とても悪い子・・・私にとっての最大の重荷・・・。私は時々あなたを殺したくてたまらないのよ・・・」


と。

空っぽの家、沈黙、そして時限爆弾。


         母は自分が望む愛を見つけることができなかったので、すべての時間を仕事に費やし、家に帰ることはありませんでした。週末でもいつも働いていて、夕食後の夜は何時間も散歩に出かけていました。


         夕食の席で、母はしばしば顔をしかめたまま黙って食事をしました。今日あったことについて話そうとすると、母はイライラして、気分が悪くなるので、よく黙れと言ってきました。たまに母の機嫌がいい日は私の話にも耳を傾けてくれましたが、それでも大抵話しをしている最中に気が散り、話を聞いてくれないことがほとんどでした。幸いなことに、私が苦しんで泣いていた場合、母は私に気を遣ってくれ、慰めてくれようとしました。私が母の関心を得る方法は、私が不幸なままでいることーそれが唯一の方法であると確信していました。 

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         おそらくアジアのお母さんに典型的なもので、母はいつも娘の私に対して非常に否定的でした。 「あなたはガニ股で足が太いので、それらをカバーする必要がある。」 「あなたの歩き方はまるで男性のようだ。」 「あなたの性格はひどい、そしてあなたが性格を変えなければ友達がいなくなり、将来の夫を見つけることができなくなるだろう。」毎日耳に入ってくる中傷を真に受けないようにするのは大変で、やがて、両親が私に背を向けたのと同じように誰もが、私を嫌い置き去りにするだろうと深く確信し始めました。


         私が近くにいるとき、母はいつも不機嫌でした。水差しがどこにあるの?と簡単なことを聞いただけでもイラつき、怒鳴り散らしてきました。そして、学校でよくない事をしたり成績が悪かったりした場合、私に向けて物をぶつけてきたり、殴ったり蹴ったり、まるで壁にぶつけるかのように髪を強い力で掴んできました。(私の国では子供を殴るのは一般的であり、母の世代では通常のしつけと見なされています)。このような、母が行う身体的な暴力は、中学三年以降は無くなりました。しかし、突如上げる叫び声、怒鳴り声が止まることはありませんでした。

14〜19歳:うつ病と絶望


         私は重度のうつ病と診断され、医者は私が自殺するかもしれないと母に告げました。 私は重い鎮静剤を服用し、24時間監視されなければならなくなり、結局、高校を一年休まざるを得なくなりました。具体的な自殺の計画を立てるほどではありませんでしたが、いつも、もし死ぬことができれば、自分と母の双方にとってどれだけ安堵することになるのか想像していました。私の人生は痛みに満ちていて、生きる価値などありませんでした。 

         母は、私が鬱の時にはどなってきませんでした。彼女は私に話をさせようと促してきました。しかし、そのような行為は既に遅すぎました。私は彼女に助けを求めることはとっくに諦めていたし、突然今頃構ってくれようとしているその態度にはイラつきもしました。しかし彼女に心を開いたら、どうせいずれがっかりすることになるのではないかと怖かった気持ちもありました。そしてそれは本当でした。私の機嫌が良くなり、再び笑顔が戻った日には、母親は前のようにいつ怒り出すか分からない時限爆弾のような存在へと戻ったのです。私が唯一安全だと感じられる方法は―そう。前のように落ち込んだ姿をしていることだけだったのです。


         私が学校に戻って新しい友達を作ったとき、親友のお父さんの一人が母に電話をかけて、娘が精神疾患のある人と付き合ってほしくないと告げ口をしたそうです。周りの誰もこれまでうつ病について理解がなく、精神疾患は私の文化の中では非常な汚名を着せられていました。多くの学生が後ろでうわさ話をしました、そして親友と思っていた友人たちも同じことをしているのを知りました。ただただ逃げたかった。この世界には自分の居場所がないような気がしました。


15〜19歳:家庭内暴力


         母は、とても思いやりがあり、気性の良い男性に会いました。何よりも、彼は毎日夕食時に学校で何が起こったのかについて聞いてくれました。それは私がいつも夢見ていたことでした。誰かが昼間の私の話を聞いてくれることでした。血縁は無い義父という関係でしたが、ついに2人目の父を見つけたような気がしました。この時は本当の家族ができてとても嬉しかったです。 

         私たちと一緒に暮らしはじめて1年後、ある日、義父は些細なことで豹変しました。義父は怪物になり、私の母を怒鳴り、物を投げ、そして母を殴りました。母は寝室に隠れ、いとこのルイは

母を守ろうと義父に対抗しましたが、激しい蹴りを入れられ、ルイの足には大きな打撲傷が残りました。その後も、義父はたった小さなことでもイライラし、怒鳴り、母に物を投げつけていました。私を殴ることはありませんでしたが、予測できない気性の爆発と母への殴打は止まりませんでした。そしてある日、義父が酔っ払っていたとき、私のブラを外してきました。

 母は義父と別れようとし、私も彼のした裏切り行為に対しては物凄く腹が立っていましたが、彼が家を去るということを考えた時、4歳の時に両親が別居した時の痛みを思い出してしまい、過去の痛みを和らげる場所を失うようで、またうつ病に陥りました。そのことが私を傷つけていると感じて、母は義父と、我慢しながらでももう少し一緒にいました。自分が自分でそのような感情を調整することができなかったこと、母を怪物のような人と長くとどまらせてしまったことに対して、私は今日の今でもまだ罪を感じています。


      私が大学のために渡米した後、母は流石に義父と一緒にいることが無理になり、家から彼を追い出しました。 一年後、母親が新しい彼氏と付き合い始めたのを知った義父は、SNSを通じて母のことをビッチと呼んだり、卑下してくるようなメッセージを嫌がらせで長文で送ってきました。そして母が一人で家にいた際は、頻繁にドアを叩いたり蹴ったりする嫌がらせをしに来ていたそうです。母が、彼のもとを去ろうと決心した本当の理由を話したら、憤慨し、母を殺しそうな勢いで強く殴り倒しました。


         現在、母は気性の荒い男性とまた再婚しましたが、いつも“少なくとも彼は身体的な暴力は振ってこないのよ”と言っていて、それを聞くたびに悲しい気持ちになります。母の他人を許す基準があまりにも低すぎます。


19歳:自由


         アメリカでの生活は私が望んでいたすべてでした。故郷の有毒な文化は息苦しく、国を脱出したいと思っていました。夢を追いかけることができ、やっと自分になれそうな気がしました。私は自分の情熱を見つけ、たくさんの良い友達を作りました。ここでは、アジアに比べて人々はそれほど否定的ではなかったようです。ようやく呼吸ができたような気がしました。 


20歳:性的暴行


         大学2年生の2学期に、知らない別の学生に性的暴行を受けました。 それは私が神経科学のクラスから寮に戻っていたときに起こりました。私が寮の別の建物を通り過ぎたとき、知らない男子学生が突然クラスプロジェクトに協力してくれないかと頼んできました。ちょうど一学期前に自分のプロジェクトのために沢山の人が協力してくれたことを思い出し、同意しました。 その場でアンケートを記入するかと思っていたら、彼は私を寮の建物に連れて行きました。違和感を覚えたものの、共用ラウンジエリアに案内され、ここなら公共の場だし大丈夫かと安心しました。


         ラウンジには誰もいなかったのですが、後でラウンジのドアが内側から施錠されていることに気づきました。彼のプロジェクトは理学療法のクラスのためのものであり、マッサージを行ってフィードバックを得る必要があると言いました。彼は私に触れ始め、ゆっくりと私の服とブラの下に手を置き始めました。困惑し、何が起こっているのかわからなかったので、凍りつきました。それから彼は私の上に乗って私を手探りし始めました。私は「行かせて!行かせて!」と声を出したが、彼は「黙って、終わらせて」と言い、起き上がることを拒否しました。私は結局彼を降ろし、部屋を使い果たしました。 

         翌日、昨日起こったことについて慰めてもらいたかったために友達3人と夕食を囲みながら自分の身に起こったことを話しました。でも友達がまず言ったことは、


「なぜ知らない彼と一緒に建物に入ったの?なぜ反撃してすぐに去らなかったの?長年やっていたテコンドーのスキルは活かせなかったの?」


と責められ、私には何もそれ以上いえませんでした。結局のところ、私はテコンドーの黒帯を持っているので、彼の力が強くても、少なくとも反撃は試みることができたでしょう。でもいざそのようなことが起こった時、私は混乱のあまり、ただ凍りつくことだけしかできませんでした。


「そのような状況に身を置いたのは、自分のせい。私が愚かで弱かったということね。」


と一言残し、友達のもとを去りました。母にも同じことを言われるだろうとわかっていたので、その事件については母にも話しませんでした。その次の日、一週間、そしてその後の数週間、ただただ混乱、自己不信、そして自己嫌悪という感情に押しのめされました。

         

         私はその犯行人物を学校に報告し、残りの学期の間、複数の事務所、上層部の人に事件のことを話し、学内裁判も行われました。お陰で彼には一時停学処分が下されましたが、彼の寮は私が住んでいるすぐ隣だったので何度かその後もキャンパスで姿を見かけました。そして、彼を食堂で目にするたびに吐き気がしました。         

  入念な事件に関する調査、そして複数回の学内裁判を終えた結果、ついに彼には退学処分が下されました。期末試験期間中で論文やテストに追われている中、最後の学内裁判に出席しましたが、彼は控訴を申し立てたのみで姿すら見せませんでした。私を台無しにしたかっただけでそうしたのかどうか、本心はわかりません。

          事件のことは自分にとって強いトラウマとして残り、ひどく落ち込んでいましたが、それでも一生懸命勉強して、すべての授業でAとA + という成績を残しました。彼は私の心を台無しにしましたが、私の成績まで台無しにはされたくなかったのです。 

         今この時のことを思い返してみると、当時の事件に対して自分がどう応じたかについて、自分の強さ、そしてエンパワーメントを示すことができたと思います。彼の行いをすぐに学校に報告し、退学させたこと、私のその行動は、ここ最近注目されている#Metoo運動と重なって、今はとても誇りに思います。しかし、当時は自分自身に重い責任があると感じて罪悪感を強く持っていました。そのことについて自分のせいじゃ無いと心から思えるようになるのに、数年はかかりました。 

21〜28歳:成長

         

         そんな辛い思い出のせいで、うつ病の発作がたまにあり、毎日抗うつ薬を服用して、再発のリスクを減らしています。

         最初は、再発するたびに、体が弱いからだと自分を責め、正常になるためになぜ薬を服用しなければならないのかとよく疑問に思いました。しかし、私は幾年を経る中で再発までの間隔がどんどん短くなっていることに気づきました。そして何度も経験しているうちに、私は少し強くなっていき、いつ鬱が訪れても怖くなくなりました。それらの経験は、私が勝った戦いの勲章になり、私がどれほど強くなったのかを思い出させてくれました。その後、再発の頻度はますます少なくなり、めったにうつ病を引き起こさなくなりました。それは、うつ病がもう私を打ち負かすことはできないことに気づいたかのようです。


         私の友人は、私が、彼らの一日を照らすエネルギーの塊であるとよく言います、そして多くの人は、それでも私がうつ病を患っていて、毎日抗うつ薬を服用しなければならないことを話すと、とても驚きます。 

         その後私は心理学の博士号を取得し、痛みを伴う過去に簡単に打ち砕かれることはなく、どんな人生を送っても強いままでいられることを自ら示しました。自分のうつ病、そして全ての辛い経験も、最終的には自分を強くしてくれたので、今となってはどの経験に対しても感謝しています。これらの経験のおかげで、私は自分の人生の情熱(心理学の研究)を見つけ、痛みが誰よりもわかるので、周りの人たちに多くの共感と思いやりを育み、逆境に立ち向かう強さも身に付けました。 

29歳:和解


          2020年は、パンデミックのために、自分を含め、多くの人にとってストレスの多い一年でした。完全に孤立し、遠く離れた地に住む家族、そしてソーシャル・ディスタンスのために会えない友人たち。私にとっての2020年での経験は、失恋、実父の二十回忌、そして叔父の突然の死も、500フィートの小さなアパートでたった一人で悼むことしかできませんでした。当然のことながら、再度うつ病に陥りましたがまたいつものように、私はそれに打ち勝ちました。 


世界がひっくり返ったにもかかわらず、ある意味で2020年は私にとって今までで最も意味のある年でもありました。なぜならそれは、母と過去についてお互いオープンに話し会えるようになれ、ついに和解することができたからです。驚いたことに、母は私の話に対して注意深く、真剣に耳を傾けてくれて、今まで感情的なサポートができなかった面、そして母自身も感情の抑制ができていなかったことについて深く謝ってきました。


         母は、離婚、夫の死、娘を一人で育てる責任の重さは自分を粉々にし、さらに性差別的な社会でシングルマザーとして娘を育てるということが自分自身を感情的に疲れ果てさせ、愛情を娘に注ぐエネルギーは残っていなかったと話しました。母は、誰かが絶望から救ってくれることを切望していましたが、頼りになる人がいないことに気づき、一人で一生懸命働き、強いままで居続けなければなりませんでした。母は怒りと絶望を抑える方法がわかりませんでしたが、仕事では常に笑顔を保つ従業員でいなければならなかったので、家ではそのストレスを私にぶつけ、唯一の避難所を私が故意に妨害していたと感じたそうです。母は本当に私を愛し、飢えや貧困を経験したり、裕福な子供たちより自分が劣っていると感じたりしないように、母のできる限りのことで最善を尽くしたと言いました。母は、子供の世話をするということは彼女自身の感情のケアも怠ってはいけないということに気づいていませんでした。

         母は、私に対して過去にした行為について人生最大の後悔をしており、もう一度最初からやり直すことができるのであればそうしたい、そして注げる限りの愛情で私を守りたいと言ってきました。話しているうちに私は、母がどれほど悲惨で絶望的だったか、そしてそのような辛い感情を一緒に共有できる人もいず一人で抱え込まなければいけなかったかを理解し始めました。私たちは何度も何度も泣き、そして関係がまた一歩近づきました。 

         それ以来、母は私の親友になりました。私たちは週に数回、お互いの近況を伝え合うために電話で話しています。私は母が今持っている気配りと愛情に驚いています。画面上でしか会話することはできなくても、画面の後ろから母の愛情のこもった温もりを感じることができます。母は何年もの時間を掛けて大きく成長しました。私たちの会話は非常に深くなり、そのたびに私たちはさらに絆を深めました。   

     今日の自分、そして今生きていることに私はとても満足しています。今までの過去の経験、今までに出会ってきた愛情溢れる人々に心から感謝しています。かつては恐怖と自己嫌悪に満ちていた私の心は、自己愛、勇気、そして思いやりに満ちています。一人暗闇の中で泣いていた子供の自分、暗闇と沈黙に囲まれていた自分は、今は愛、温もりに囲まれ、さらに強さを持っています。そしてその子は知っていますー何が起こっても、その子にはそれを克服し、どんなことも乗り越えられる強さがあるのだと。